Junとの柔道の日々と たくさんの思い出と 伝えたかったこと

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💐 はじめに 🌻

この春、幼馴染みのJunが亡くなった。
数十年会ってなくて、時折「会わなきゃ」と思ってたのに、会わずじまいで終わってしまった。

思い出などを書き留めます。

💐 ご近所 🌻

Junと”かみたに”は同級生で、Junの家は 当時の我が家から200mぐらい離れたとこにあった。

Junの お父さんとお母さんが 金属加工か何かを営んでおられる、作業場付きの家で、顔がそっくりの お姉さんがいた。

💐 柔道の日々 🌻

◆ 小学2年の夏 柔道始める

Junと”かみたに”は、小学2年の夏ぐらいから 駅前の柔道場へ通い始めた。

“かみたに”が柔道を始めたきっかけは、保育園時代から身体が大きめで、たまに誰かとケンカしたりするので、エネルギーが あり余ってると母が思い、半ば強制的に通わされた。
イヤイヤ通ってたので 全然上達しなかった。

でも Junは違って、気持ちが入っていて、さらに大きく 強かった。

夕方になると Junが誘いに来てくれて、いっしょに道場へ向かった。

土日を除き 週に5日通った。

◆ 道場へ向かう道中 … 団地

道場までは 約1km 歩いてゆく。

その道中、同じように道場へ通う同級生と合流する。 
↓以前のブログで登場した、美人ママを持つ H田君とは 団地の公園で待ち合わせした。(S田君も この団地だったかな?)

当時としては 割と珍しい遊具のある公園だったが、Junと何をしてたか忘れた(笑)。

◆ 道場へ向かう道中 … ライバル

団地を出発すると、次は 少し道場寄りに住んでいた N本君と合流する。

N本君は 背丈が小さかったがハートが強く、小学生高学年になるまでは Junに背負い投げで立ち向かうライバルだった。

N本君の家の そばに空き地があって、少しだけ遊んでから道場へ向かった。
当時 住んでいた街には、子どもが遊ぶのに ちょうど良いサイズの空き地が あちらこちらにあった。

ある日 その空き地で、石を投げていてふざけていたのか、Junが投げた石が”かみたに”の頭に当たった。

ぜんぜん痛くはなかったけど、暴れてたので 出血がまぁまぁ出てきた。
怖くなって大泣きしながら、道場へ行かず そのまま家へ帰った。
頭を抑えて歩きながら、家に着くまで ずっと泣いていたような気がする。

↓以前のブログにも書きましたが、”かみたに”は 泣き虫で嘘泣き派なので、なんてこと無くても 何かにつけて泣いた。

◆ 柔道場の思い出 … 稽古前の胴馬(?)どうま(?)

稽古では 生徒が30〜40人集まるが、稽古が始まるまでの時間、道場では カラダを使って遊んだ。
スマホも無ければ ニンテンドーDSなども無い時代。

「胴馬」「どうま」「乗り馬」。
呼び方は忘れたけど、昔の男子の遊びは 弱肉強食だった。 
「胴馬」のような、ウィークポイントとなる弱い子を潰す遊びが多かった。

ある日、”かみたに”が小学5〜6年生ぐらいの頃、胴馬 が潰れて 僕が一番下敷きになったのか、遊んでた流れでそうなったのか、仰向けに寝た僕に皆んなが飛びかかって 人間の山積みができた。


“かみたに”は
「うわぉーーやめろぉーー死ぬぅーー」
とか言いながら ふざけていた。

その時、僕のすぐ上にいたJunが 腕立て伏せの姿勢になって、”かみたに”に かかる荷重を少しでも軽減するように 突っ張り始めた。

なんせ Junは 大きく 強かった。

柔道場の天井のライトをバックに Junの顔が影になってた。
その影が「苦しないやろぉ?」と、皆んなにバレないように囁いた。

(後述「おわりに」に続く)

◆ 柔道場の思い出 … 師範・先生

稽古の指導は 1人の先生が担当され、曜日によって違った。
(稽古の当番じゃない先生は 併設の接骨院で働いておられた)

S木 先生は若く、楽しい稽古だった。
回転受け身のパフォーマンスを時々見せてくれて、小学生を楽しませてくれた。

ある時は、小学生を直立させて その上を飛び越えてゆき 回転受け身をされた。
↓「にゃんぱられ」的なヤツじゃなく スーパーマン的だった。

Junも N本も “かみたに”も 皆んなも、回転受け身は 遠く高く飛ぶ練習をした。

・・・・・
金曜日担当(だったと思う)の F垣先生は怖かった。

稽古が始まる直前、廊下で待機している生徒達の前で、
「塩や唐辛子を(道場全体に)撒き散らして、ピリピリっとした稽古をするぞー!ええかぁー!」と、聖飢魔IIのように わざと怖がらす前置きを 時々披露された。
本当に塩や唐辛子を撒いているような手振り付きで。

F垣先生の四角い顔とスポーツ刈りが 恐怖感を増していたが、Junは平然としている。
僕は 顔がこわばっていたと思う。

メリハリがある いい道場だった。

F垣先生もガンには勝てず、早くに天国へ。

・・・・・
↓以前のブログにも書きましたように、帰り道の思い出もあるし、「掃除の班分け」「皆勤賞とプラモデル」「I村、U原、コショウ先輩」などの思い出も また追記しようと思う。

💐 中学校時代 🌻

◆ ストーカーとケンゴ

F子さん

中学1年の時、Junは 同級生のF子さんのことが好きになった。
F子さんは二重まぶたで、笑った時の下まぶたの膨らみも可愛らしい(と Junが言ってた)、背スジもスラっとした美人系だった。

ある日、 Junが「F子さんの家を見に行こう」と言いだした。

F子さんの家は 僕たちの家から2km近く離れてるので、自転車に乗って 二人で向かった。

彼女の家の前を何往復も通過したけど、そんな 運良く 彼女が玄関から現われるはずもない。

大阪の南部で愛を叫ぶ

Junは そのまま帰るのも虚しいと思ったのか、「声を出して 彼女の名前を呼ぶ!」と言いだした。
「やめとこぉやー」と制止したと思う。

でも もう Junの何かが止まらない!
しぼり出した代案が、
「名前を分割して呼ぶ!」
「へぇっ?!💦」と俺 ・・・・・
・・・・・

当時 鰻登りだった、阪神タイガースの掛布雅之(かけふまさゆき)さんの名前を使うことを、Junは思いついた。

F子さんの名前を 仮に「フジコ」さんだと想定して話すと、

フジコさんの家の前を 自転車で通過するタイミングで、(甲子園球場で ファンが 音頭に合わせて声援を送るように)

“かみたに”が
♬かっ けっ ふぅー♬
それに続いて Junが
♬じー こー♬

♬かっ けっ フー ジー コー♬
と、つながってるのが自然に感じるように叫んだ。
近所迷惑じゃない程度に。
前後の順を時々交代しながら。
「掛布ジ子 って誰?」って 変テコに感じたけど。

Junの情熱に押されて、一緒に何往復かして 声を出し合って、虚しく帰った。

今でいうストーカーみたいで緊張したし、僕は僕で 他に好きな人がいたから、「終わろう」と決めて 帰る瞬間 ホッとした。

別な日に もう一回 実行したような気がするが。

伏兵現わる!

ところが、その後 ビックリすることが起こり、Junの恋があえなく終わった。

F子さんは、↓以前のブログに登場するケンゴのことが「好き」と、女子のF子さんから告白した。

なんとなく思い出すのが、学校の休み時間か放課後の廊下で、F子さんに告白された直後のケンゴに会った。
ケンゴがはにかんだ顔で 僕の方に向かって歩いて来た。

ケンゴの はにかんだ顔は わかりやすい。
頬骨のあたりの筋肉がギュッと上がり、口角も上がって赤面する。
「あぁぁぁ、こらぁ、嬉しさMaxの顔しとんなぁ」と、誰でもわかった。

そして、この告白事件に対するJunのリアクションを覚えていない。
二人とも 互いに 知った仲なので、「あのケンゴが!?」みたいな衝撃が走ったと思うが、Junは強い。

◆ カーキ色のトートバック

(画 : “かみたに”)

Junが所有する持ち物の数々が、”かみたに”には カッコ良く見えた。

中学時代、デニム生地のトートバッグが学生を中心に流行った。

そのバッグの色は、ブルージーンズ色、赤色、緑色など、様々なカラーが販売されていたけど、Junのヤツはカーキ色・黄土色だった。

なかなか、他の友だちも持っていなかった色だったけど、Junが持ってると「一番いい色」に変わってゆくのを感じた。

・・・・・
Junは 同級生のY尾と仲が悪かった。
二人ともギター弾きだった。(後述)

“かみたに”は、Y尾とも Junとも 仲が良かったから、時々 困った。
だからといって 中に入って仲介するほど 度量も無かった💦

ある日の下校時間、二人は とうとう 教室の手前の廊下で、面と向かって言い争いになった。(西部劇の対決よりは短めの 4〜5mの距離で)

言い争いになっている時、かみたには Jun の斜め後ろに立って、「早よ帰ろぉ」とか何とか言ったような気がする。

だが とうとう、けっこう教科書類が入っていて 重そうな カーキ色のトートバッグの、手提げ部分を握っていたJunの手が開いて、トートがゴトッと廊下に落ちた。
臨戦態勢の音だ。

周りに何人か集まっていた、その場の空気が張り詰めた。。。

まっ、結局 取っ組み合いにはならなかった。
Y尾も勝負にならないことはわかっている。
誰かが止めたような気もする。

◆ 苗字で呼んだ

ちなみに、当時の男子の同級生は、僕も含めて 皆んな 彼を苗字で呼んでいて、下の名前の「Jun」と呼んだことがないと思う。
何人かの女子からは呼ばれてたけど。
(このブログでは便宜上「Jun」と表記してますが)

力強さのオーラや 大人びた雰囲気があったからかな?

道場に通う 中国人の子が 日本語をたどたどしく喋っていて、皆んなが面白がってからかっていると、
「ヤメよぉーや」と諭して、お父さんみたいだった。

ゲームセンターのピンボールや ルーレットのコインゲームなども、ムダに だらだら遊ばなかったように思う。
僕は 少しダラダラはまっていた。

・・・・・
ただ、からかったり いじったりする時などは、一時的に「ブー」をつけた。
例えば、「みやもと」君だと「みやブー!」と呼ぶように。

・・・・・
今後 追記する予定 …
「日米対抗ローラーゲーム」「持ち物:ベースボールバッグ」「指笛」「持ち物:野球グローブとドロース」「S田塾と円高と海外旅行」

💐 転校 〜 社会人時代 🌻

“かみたに”は 中学2年の頃 一旦 柔道を辞め、Junも ご家族全体で引っ越して、それと共に 転校もしたので ほぼ会うことがなくなった。

◆ ギターを始める

Junは お姉さんの影響なのかギターを弾き始め、バンド活動も始めた。

中学2年生の時だったか、Junが転校した 隣り町の中学校で、文化祭か音楽祭かに出演したのを見に行った。

体育館(だったかな?)の会場へ行くと、↓以前のブログの「メルヘンの世界」に登場する K玉さんが、その お祭りの受付をしていて、前売りチケットを回収しているのに遭遇してドキッとした。

僕がタジタジしていると、一緒に行った男子の皆んなは、その受付のテーブルに 前売りチケットをポイポイ投げるように置いて、さっさと会場内へ入って行った。
K玉さんは 静かに それらをかき集めていた。

僕も同じようにチケットを投げて 無言で会場内に入って行った。
「久しぶり!」とか 明るく昔話でもすればよかった。

Junのバンド演奏がステージで始まって 再度驚いた。
キーボードがK玉さんだった。

会場内の椅子に座っていると、近くの席に 小学生の頃の同級生の K川という女子が座っていて、
「Junのズボン、ピッチピチッ!」と、隣に座っている女子とニタニタ笑ってた。

Junは 昔からずっと、キューピーちゃんとマシュマロマンを足して2で割ったような、色白の卵型の顔とムチムチした体格だった。
成長のスピードが速かったので ズボンなどの買い替えが大変だったろう。

◆ 高校時代

Junとは進んだ高校が違ったが、最寄り駅が同じだった。

いつか会うかなぁ、と思ってたら、1年生か2年生の頃 どっかの駅のホームで出会った。
僕は一人で帰っていて、Junは高校の柔道部メンバーとベンチに座っていた。

「おう」とか 挨拶し合った後、Junから
「柔道やれやぁ(※”かみたに”が通っている高校の柔道部へ “かみたに”自身が入部して Junの柔道部と戦おうぜ、という意)」
と言われた。
「お前とこ弱いねん(※”かみたに”の高校の柔道部が弱いから 入部してなんとかしろ)」
とも。

この時が実際に顔を合わせた最後だった。

“かみたに”は「ん〜〜」とか「そぉーかぁ〜」とか、返事にならない言葉をかわして、Junの友達もいたので、電車のホームの別な場所へ移動した。

◆ 岩のよう

Junは 関東の体育大学へ進学した。

“かみたに”も 一浪して大学へ進み、大学の部活で 再び柔道を始めた。
といっても理系の方へ進んで、勉学も まあまあ忙しいので、柔道の練習は激しくなく 軽く。

大学1年の頃、足を捻挫したので、Junと通っていた道場の併設 接骨院へ 6年ぶりぐらいで行った。

受付を済まして 待合室で座っていたら、診察室へ通じるドアがバーン!と開き、白衣を着た “聖飢魔II” F垣先生が待合室へ入って来られた。
(※普通は 名前を呼ばれてから 患者が待合室から診察室へと入るドア)。

受付に提出した 健康保険証の名前で わかってくれて嬉しかった。

四角い顔とスポーツ刈りは そのままだったが、久しぶりに再会する大人同士の 穏やかな会話をした(当たり前か💦)。
そして 診察室へ一緒に入った。

診察室へ入ると、道場主のY師範が施術にあたってくれた。

師範が、僕の足に消毒液をかけ、湿布の前処理のパウダーを塗り、当時のクリーム状の膏薬が付いた湿布を当てて、包帯を巻いていただいた。
その流れるような仕草の断片が まだ残っている。

施術をしていただきながら、話が 体育大学へ通うJunの話になった。

今は亡き Y師範が
「Junは 岩のように大きぃなったぞー」と おっしゃった時の笑顔が忘れられない。
教え子が立派に育った嬉しさが伝わってきた。

体重は100kg超級のクラスで強くなっていたらしい。
でも、Junは 接骨院の免許取得のため、選手になるコースへは進まなかった とのこと。

◆ 社会人になって

Junは 引っ越した家の近くで 接骨院を開業した。
“かみたに”の実家から2.5kmぐらいのところ。

↓以前のブログに登場する ご近所のD上さんのおばさんが、Junの接骨院へ通ってた時期があった。

ある日、D上さんが 我が家で母とダベってて、”かみたに”が家にいるのを見つけて、Junの接骨院での会話を伝えてくれた。

「『近所に”かみたに”さんて家あるやろ? 幼馴染やねん』って言うてはったよ〜」などと。

・・・・・
今から数年前か そのもう少し前か、Junが柔道六段に昇段していることを、道場のウェブサイト掲載の写真で見た。

赤と白の、六段以上の柔道家が着用する帯が、その岩のような体躯と共に光っていた。

・・・・・
今年の春、七段に昇段する必要書類を準備するため、ある先輩とメッセージのやりとりをした次の日に、心不全で急死したとのこと。
健康診断の結果が悪かったのか 持病があったのか、前々から周りから心配されていたらしい。

七段かぁ。スゴいなぁ、Jun。

◆ Junの お陰

昔、道場へ行く時、Junが毎日迎えに来てくれたので、イヤイヤながらも柔道を何年も続けることができた。
Junと一緒じゃなかったら、気まぐれで飽きっぽい”かみたに”だけでは続かなかったと思う。

柔道やってて良かったことは色々あるけど、その一番は 大学の柔道部へ 勇気を出して入れたこと。
それをきっかけに 弱虫・泣き虫の”かみたに”の精神面が 180度変わった。

好きな人ができたら告白できるようになったし、ユーモアを楽しむことができる人間になったと思う。

この分岐点が無かったら、サービス業の店長にも なってなかっただろうし。

・・・・・
Junは、引っ越してからも、周りの人達に 同じようなエネルギーを注いでたんやろなぁ、と思う。

💐 おわりに 🌻

Junは成し遂げて 光ってた。

大人になってから Junに再会しようと思ってて 会わなかったのは、今の僕を見て ガッカリするだろうと邪推したから。

僕も何かを成し遂げてから 自慢げに会いに行くようでなければ、とか 心のどっかで 変テコに意識してた。

最近 思うことは、Junがくれた魂を 今度は僕が 様々に 活かしていかねばっ、ということ。

また 胸を張って会えるように。

・・・・・
ちゃんと言えなかったこと …

気弱な俺を色々支えてくれて ありがとう。

「柔道やれやぁ」って助言してくれた あの時、ちゃんと話をしなかったこと、ごめん。

柔道場の 胴馬 遊びで 苦しい声を上げた時は、本当は苦しくなかってん。
苦しいフリして ふざけてた。
いつもどおりの嘘泣きと同じように。
Junは気づいてたよね、きっと(笑)。

・・・・・

※映画「Le Gran Bleu」の、でっかいエンゾ(ジャン・レノ)がJunで、気の小さいジャックが俺、かな(汗💦)。

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